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UN-GO各話感想② 第3話-第5話

2012.11.11 01:00|UN-GO
 私はたゞ、私自身として、生きたいだけだ。
 (坂口安吾「デカダン文学論」1946.10)

   ***

 「江楠/weblog」もなにげに一周年です。
 零細ブログですが、それでも定期的に閲覧してくださる方々、そして今日はじめて来てくれた貴方、誠にありがとうございます。
 ていうか、いい加減仮タイトルのままってどうなんだ・・・?

 さて、『UN-GO』各話感想②です。
 前回の記事で「3話以降の感想はすぐ書ける」とか言ってたけど、そんなことは全然なかったぜ! ただ観てるぶんはそうでもないけど、実は話が進むごとに複雑さが加速度的に増していっていることに気づいた。 第7・8話とか、書きながら気ぃ狂うんじゃないか・・・。
 本文中の考察はあくまでも僕の推論であり、実際の制作意図とは違うかもしれないので、あしからず。
 実在人物名は敬称略。

 ※注意:事件の真相・真犯人ネタバレがあります。
 
  ***

・第3話「覆面屋敷」
 原案:「覆面屋敷」(『明治開化 安吾捕物帖』)
 脚本:會川昇 絵コンテ:木村隆一 演出:木村隆一
・第4話「素顔の家」
 原案:「万引家族」(同上)
 脚本:會川昇 絵コンテ:三條なみみ 演出:京極尚彦

~あらすじ~
 巨大企業の佐々グループを運営する佐々家。その当主・佐々風守が突然炎に包まれて死亡する。それは七年前の当主・駒守の死に様とそっくりだった。
 娘の光子から梨江を通じて、新十郎に捜査の依頼が。
 例によって麟六が事件に干渉し、新十郎は隠されようとした真実を明らかにする。
 実は「風守」は死んでおらず、さらには彼は人間ではなく、かつて駒守が開発した人工知性R.A.Iだったのだ。
 では、風守と思われた遺体は一体誰のものなのか・・・?
 
 第3・4話はシリーズ初の前後編、そして結城新十郎探偵事務所三人目のメンバー登場・・・といつにも増してボリュームの高いエピソードだ。
 第3話では原作の時代性を映した、いかにも名家の因習にまつわる推理モノといった趣で事件発生から推理合戦までの様子が描かれ、第4話では一転して近未来SFの要素を強めた道徳問答に移行する。


・『UN-GO』のアクション要素

 話のテーマにふれる前に・・・。
 第4話で、一旦佐々家から離れた敗戦探偵メンバーが追手から襲撃を受ける一幕がある。
 路地裏に追い詰められ、しかし因果の能力で反撃が始まる―――と思いきや、場面は切り替わって真相解明パートに入ってしまう。
 僕はまあこの通り『UN-GO』大好きだけれど、たった一つ本作への不満があるとすれば、制作のボンズらしい派手なアクションがあまり見られなかったこと。放送当時、特にこの第4話のシーンでは不完全燃焼な思いをした。
 しかし、後に手にした『UN-GO脚本集』にて、その回答を得られたというか、まあ納得のいく文章が載っていた。水島精二監督も脚本の會川昇も、企画当初は「探偵バディアクション」の要素を重要視し、「静的推理劇」からの「ダイナミックな人外アクション」の描写を想定していたらしい。しかし尺の都合上アクションを入れる隙がなかなか無く、第4話でアクションを入れられなかった時点で水島監督もアクションの方向は無理と感じざるを得なかったという。
 だから、ラスト第11話の謎解きからの因果VS別天王の大バトルのシークエンスは、アニメ本編の中では唐突に感じられたが、むしろあれが当初に望まれていた毎回の展開のようだ。
 まあ、それ以外アクションをばっさり切ったことで、作品全体が静かな佇まいのイメージで統一された面もあって、結果オーライといえばそうなのかもしれない・・・?
 ちなみに、怪奇要素も当初はもっと強かったんだとか。


・「R.A.I」の寓意

 さて、この前後編のテーマの中核となるのはR.A.Iだ。 
 正式名称・Real Artificial Intelligence。佐々駒守が開発したクラウド型集積プログラムで、本来は実体を持たずネット上に分散している。劇中では、R.A.Iは人型アンドロイドに入って人間を装い、「佐々風守」として暮らしていた。

 「R.A.I(ライ)」という名前は単なる略称ではなく、元々原案の「覆面屋敷」「万引家族」に出てくる「癩(らい)」にかかっている。
 「覆面屋敷」原作では、風守は「見知らぬ人に会うと癲癇(てんかん)を発症する」という理由で座敷牢に入れられていた。それを勝海舟(「海勝麟六」の翻案元)が推理で、彼は癲癇ではなく癩病だったのだ、と指摘する(結局その推理は外れなのだが)。
 癩病、現在では「ハンセン病」と名が改められている感染症の一種。
 本来伝染力は弱く現在の医療では克服されているが、かつては不治の病とされ患者は激しい差別対象になっていた病気だった。適切な治療を受けず症状が悪化すると皮膚に異常が表れるために、患者は包帯や覆面で顔体を隠すことがしばしばだった。それが本作での覆面を被り引き籠って暮らす風守(R.A.I)として表現されているのだろう。そしてR.A.Iもまた劇中で規制対象となり人の目に触れぬよう追い詰められ、その是非が物語の主題となる。
 また、「万引家族」でも登場人物がハンセン病にかかり周りへの発覚を恐れて自殺し、その息子も病の遺伝(全くの迷信)に怯える、という一幕がある。
 第2話の「ブルーライト・ヨコハマ」しかり、話のテーマを映すガジェットに込められた意味や原作からの改変具合を探すのも『UN-GO』の醍醐味だ。
 ちなみに、アニメでハンセン病をあつかう・仄めかす作品では、有名なものでは『もののけ姫』(タタラ場の人々)がある。


・謎解きの場所

 R.A.Iの名前についてはこれくらいにして・・・、本エピソードでは、第2話から「娯楽物の規制」のテーマが引き継がれ、今回はその是非を作り手/受け手双方に問いかけるような、さらに突っ込んだ作りになっている。
 R.A.Iは開発当初は驚きと称賛をもって迎えられたものの、R.A.Iを暴力・異常性癖の捌け口や見世物として扱う案件が続出したため、公序良俗を乱すとして「新情報拡散防止法」によって規制・廃棄が進められた。
 そして最後のR.A.Iとなった風守の処遇をめぐって、新十郎達は謎の遺体炎上事件の真犯人――佐々駒守のもとへ。 

 その場所は隠された地下室。 
 『UN-GO』において謎解きが行われる/真相が開示されるのは、「ビルの最上階」「墓地」「地下室」「死者の像の前」「廃車集積場」「刑務所」・・・等々、色々な意味での「極限」「果て」、タイトル通りもうこれ以上先に進めない場所でばかりだ。そこで新十郎は、足元を掘り返すようにミダマを暴き人の心を探る・・・。


・倫理問答 

 駒守は、死を装っていた理由を明かし、そしてR.A.Iの是非について語る。
「人間というのは誰でも多かれ少なかれ、自分にとって美しいものや楽しいことをとことん求める。それを人間相手に発揮したら犯罪だ。だけど相手はロボットなんだ。それで誰が傷つく? 気持ち悪いなんて言うのは、自分の欲望を認められない奴の戯れ言だ」
 そのうえで彼は、所有物なのだから好きにして良いのだと、死体偽装や炎上事件の罪を風守に押しつけようとする。

 ところで駒守は少女型のR.A.Iアンドロイド体を侍らせて新十郎達と向かい合っている。このアンドロイド体のモデルが誰なのかは作中では特に明言されていない。が、その容姿は駒守の娘・光子とよく似ており、少女時代の彼女を模して作られたものなのではと考えると、事態はさらにえぐいことになる。 
 なるほど駒守がR.A.I開発に注いだ情熱は本物であったはずだし、姿を消しても七年間自分の家族の様子を見守っていたことは事実だ。家族愛もあったのだろう。自分のR.A.I/風守のボディを娘に似せて作ったほどに。

 新十郎は駒守の価値観に一旦は同意するが、
 「人間はうつくしいもの、楽しいこと、贅沢を愛するようにもうひとつ・・・正しいことを愛する。何なら正義と言ってもいい。男が美女を愛し、女が贅沢を求め、あらゆる悪い事を欲すると並立に、人は正しい事を愛する生き物だ。(中略)誰でも人に言えないような欲望を持つ、そんなの当たり前だ。じゃあ、あんたの正しさはどこにある?」
(原文:そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するやうに、正しいことをも愛するのである。人間が正しいもの、正義を愛す、といふことは、同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存する故に意味があるので、悪いことをも欲する心と並び存する故に意味があるので、人間の倫理の根元はこゝにあるのだ、と私は思ふ。(改行)人間が好むものを欲しもとめ、男が好きな女を口説くことは自然であり、当然ではないか。/『デカダン文学論』より)

 そして新十郎は「ここだよ」とマスコットの回路に入った風守を掲げ、彼?の無実を自ら立証させる。
 が、駒守は激昂し新十郎に飛びかかり――その際に娘の写し身のアンドロイドは無残に投げ出され―――風守のマスコット体を捻じ切って破壊する。そして実の家族に見向きもせず、検察に伴われてその場を出ていく。
 「僕が作ったものを壊しただけだ!」
 そう、この瞬間彼は確かにその言葉通り、自分のものを壊した。家族とR.A.I両方への愛や良心を自ら捨て去ってしまったのである。

 アンドロイド体に移っていた風守は、新十郎と因果に問いかける。
「私に、できることがありますか?」
 新十郎は、答える。
「俺達はただ生きて、堕ちるだけだ」
 彼は社会や駒守と違い、風守に何の意味付けも与えない。そしてその科白は、風守が劇中で言った 「私は、この世で最後のR.A.Iです。存在し続けなければなりません」という言葉に呼応するものでもあった。
 だからこそ風守は、新十郎達に付いていくことを決断したのだろう。

 そして、風守が見聞きしていた新十郎と駒守の問答は、続く第5話の展開で重要な意味をもつことになる・・・。

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   ***

・第5話「幻の像」
 原案:「幻の塔」(『明治開化 安吾捕物帖』)
 脚本:會川昇 絵コンテ:木村隆一 演出:木村隆一

~あらすじ~
 かつて爆弾テロを身を挺して阻止した三人の若者達。議員の島田白朗が彼らを讃えて作ったブロンズ像の序幕式にて、殺人が起こる。新十郎は、島田こそが犯人ではないかと疑う。しかし因果の能力で関係者が明かしたのは、意外な事実だった・・・。
 
 僕が『UN-GO』で一番好きな話数は、この第5話だったりする。敗戦探偵メンバーがそろっていて、作品フォーマットに沿った事件展開で、かつサプライズ要素もあり、坂口安吾的メッセージもあり・・・と、『UN-GO』のエッセンスが凝縮された一話だと思う。
 そして、第3・4話が第2話から「規制」のテーマを引き継いでいたように、この第5話も前話からテーマを一部引き継ぎつつ強調している。
 それは、「人間の善性の在処」だ。


・推理ミス

 第5話では、自己犠牲によって人命を救った若者達の存在が重要なトピックになっている。
 島田議員の演説会で反対勢力により爆弾テロが仕掛けられ、そのままにしておくと集まっていた人々が皆危ないという状況。そこで、支持者の三人の若者が爆弾の積まれたトラックに乗り込みその場から遠ざけ、彼らは爆発に巻き込まれ命を落とした・・・。
 島田議員は彼らを讃えるとともに自身の権威拡大にも利用する。
 新十郎はその美化された逸話と島田の論調に反感を覚え、事件が起こると真っ先に島田を疑う。が、その先入観によって推理を外してしまう。


・自己犠牲のかたち

 若者達の自己犠牲をめぐる島田と新十郎の対立は、坂口安吾のエッセイ『特攻隊に捧ぐ』がモデルになっている。これは1947年に書かれ、雑誌に掲載予定だったがGHQの検閲によって削除されていた。その経緯だけでも『UN-GO』にうってつけの原案だといえる。

 エッセイ中で、安吾は戦争や特攻隊という仕組み自体は強く否定するものの、特攻で死んでいった兵士達には称賛の言葉を送っている。
もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はずはないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう
我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の偽懣ぎまんとカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。
私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩おうのう苦悶くもんとかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。」/『特攻隊に捧ぐ』より

 特に若者達の犠牲を美しいもの正しいものとする島田の論は、このエッセイが下敷きになっている。 

「だが彼らは死んだ。大勢の命を救うために。それ以外に何が必要なんだ。あるいは彼らは死に怯え、恋人の名を呼び、小便でも漏らしたかもしれん。だが、アクセルから足を離したか? 人は誰でも生きたいと願う。当然だ。しかしあの一瞬彼らは、そこにいる大勢を救うことを選んだのだ。逃げようと思えばできた。だがしなかった。私は彼らの無償の心を信じ、それを英雄譚として語り継ぎたいと心底願っている」

 新十郎はその時は島田の言葉に反論できない。
 島田の言葉に安吾作品の引用があるというのも重要だ。科白に安吾の言葉を引用するのは、何も彼だけの専売特許ではないのだ。安吾の言葉が新十郎意外にも拡散し彼と相対するという状況は、以降の話数でもみられるようになる。それが第11話ラストのあの対峙につながるのだろう・・・。

 この話が上手いのは、安吾のエッセイにおいて特攻隊が否応ない強制のなかにあったのに対して、『UN-GO』第5話での若者達の自己犠牲は原案よりもある程度の「逃げる余地」があったということだ。彼らは自分達の命を優先して爆弾から離れることもできた。にもかかわらず他の人命を救うために死を選んだ・・・というストーリーが、よりいっそう美化される素地を強め、反論を難しくしている。

 さらに、新十郎が推理にも反論にも失敗した理由はそれだけではない。第2話のように、事件のエピソードが「因果論」で語られる彼の過去に重なるものだったからだ。若者が戦争の犠牲になること、それが美談として語られ戦争・政治の道具になること・・・。第2話よりさらに直接的なオーバーラップが、新十郎の冷静さを奪っていた。島田が自己犠牲に美しさのみを見ているのならば、新十郎もまたそこに美しさなどないという先入観に囚われている。


・うつくしいもの

 新十郎が形勢を転じる切っ掛けとなるのは、探偵事務所に退却した先での風守との会話だ。梨江や因果から痛罵を受けた後、新十郎は風守に因果との関係を尋ねられる。 
「あなたは、因果に人を殺させないために、代わりにミダマ、真実を与えると条件にしたそうですね。でもそれは、こいつに取り憑かれることだと分かり切っていた」
「それがどうした!」
「それは、他の人のために命を捨てることじゃないですか?」

 そもそも、第4話で、人間は醜い欲望を抱えると同時に正しさを求める心も持っていると、新十郎自身が言い放っている。風守の言葉はその反復でもあるのだ(前述の第4話の最後のやりとりといい、新十郎と風守の対話はさりげなく互いの深層とリンクしている)。
 ただ、第4話で取り沙汰されていたのは自分の嗜好・行動を善とするか悪とするかという問題で、今回はそこに「他人のために自らを犠牲にできるか」という利他的なテーマが絡んでいる。そこに関してトラウマ・先入観をもつ新十郎は、改めて他人から指摘されなければ客観的な思考を取り戻せなかったのだろう。

 新十郎は再び関係者一同を集め、今度こそ真犯人を看破する。
 はからずもその真犯人も、最初の新十郎と同じ、戦争の美談を拒絶するものだった・・・。
 結局、爆弾テロを阻止した若者達の真意は藪の中となる。

 そして新十郎は、記念館敷地に置かれた戦車の前で言う。
「人は他人のために命を捨てられることもある。だからといって俺やあんたが偉いわけじゃない。偉いのは、美しいのは・・・死んだ彼らだけだ! 俺達は卑小で、愚かで、猥雑で。この地面に這いつくばって必死に生きている。それだけだ」 
 新十郎のこの言葉も「特攻隊に捧ぐ」をベースにしたものだ。ただしそれは文意を大きく書き換え反転させたものになっている。原文と思われるのは以下の文だ。
 「私のごとく卑小な大人が蛇足する言葉は不要であろう。私の卑小さにも拘かかわらず偉大なる魂は実在する。私はそれを信じうるだけで幸せだと思う。」
 逆に言えば、偉大な魂(若者達の自己犠牲精神)が実在する/本物だとしても、今生きる自分達の卑小さに変わりはなく、正当化の拠り所にはならないということだ。
 この論理の転換・クローズアップは坂口安吾というよりアニメ『UN-GO』の作り手達の意思によるものではないだろうか。

 本作において安吾作品の言葉・メッセージはふんだんに引用されるが、それは必ずしも絶対唯一の真理としては提示されない。むしろ安吾の言葉の揺らぎや矛盾を利用して新十郎だけでなく各人に引用させることで、答えが一つだけでない状況が演出されている。それでこそ、坂口安吾という作家の生々しいパーソナリティが再現されるのだろう。

 第4話では、駒守はR.A.Iという俗悪とされるものとそこに耽溺する自分を正当化したが、自身の良心の欠如を指摘され、結果自分からR.A.Iをただの所有物だと切り捨ててしまった。
 そしてこの第5話では、自己犠牲という美しいもの/正しいものを称揚する島田は、死んだ彼らと生きている自分達を同一化することを否定された。
 自分の外に正当性を求めればそれは幻と消え、そして自身に宿る良心に自ら気づくことはない。
 そうしたテーマで、第3・4話と第5話は対になっているのではないか。
 
 ED曲がかかる中のラストシーン、撤去されていく像に向かって、新十郎は指鉄砲で撃つ真似をする。と同時に画面にかかるテロップは―――。

un-go44.jpg imagesCAP908W8.jpg

   ***

参考資料
・坂口安吾『デカダン文学論』『特攻隊に捧ぐ』
・會川昇『UN-GO 會川昇脚本集』株式会社スタイル 2012.4

 次回の各話感想③は第6話~第8話を予定。
 いつになるかな~。

 追記:小見出し追加、細かいところ修正。
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テーマ:アニメ
ジャンル:アニメ・コミック

tag:UN-GO 水島精二 會川昇 坂口安吾

Comment

来ましたね!

今3、4話分だけ読んで、もうちょっとクラクラしてきましたw
ホント凄い情報量の作品だ。。。元ネタの参照わかりやすいです、
一応買うだけ買ってあるんですよね、見返す前にまず安吾作品読んでおこうかな。。。

で原作読んだらそろそろまたUN-GO見たいな~と思いつつ
あの花とピンドラとAOと氷菓も見返したかったり、
これらが全部ここ2年以内の作品ってことを思うといやなかなか悪くないぞと
そう思いながらヱヴァ新劇を見返して「破」から「Q」までの間に生み出されたり出会ったりしたアニメの数々を想うと
なにやら壮大なクロニクルを眺めているようで感慨深いです
エンドロールにクレジットされるスタッフの名前への思い入れも確実に増していて.

破を見たのが最近のようで、あの頃は今のアニメの流行りなんて
ほんのちょっとしか知らなかったな~
けいおん!すら見てなかったと思うとなんか恐ろしくなってきました

では、5話目を読みにまた来ます^^;

>ヒノキオさん

コメントありがとうございます。

> 今3、4話分だけ読んで、もうちょっとクラクラしてきましたw

結局またストーリーをなぞるので手一杯でした・・・
ていうか自分はいい加減「文章を短くまとめる」ことを覚えないといけないなあ・・・

> 一応買うだけ買ってあるんですよね、見返す前にまず安吾作品読んでおこうかな。。。

回によっては、『捕物帖』からの事件原案は本当に枠組みだけ、というのも少なくないんですけどね。
僕としては科白の引用元のエッセイ読む方が面白かったりします。

> あの花とピンドラとAOと氷菓も見返したかったり、
> これらが全部ここ2年以内の作品ってことを思うといやなかなか悪くないぞと

最近は萌えアニメばかり・・・なんて、一概には言えないですよね。ちゃんと観てればちゃんとした作品はちゃんとあるんだから。

> 破を見たのが最近のようで、あの頃は今のアニメの流行りなんて
> ほんのちょっとしか知らなかったな~

いや、僕も09年辺りは映画もアニメもぼんやりとしか観てなかったので、反省しきりですw

> では、5話目を読みにまた来ます^^;

またどうぞ~
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プロフィール

江楠

Author:江楠
 
東海在住。 

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ホット・ファズ、晩春、妖怪百物語、ゾイド、ハガレン、ガッチャマンクラウズ など

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