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『この世界の片隅に』

2018.08.15 22:17|映画感想
 2016年11月に『この世界の片隅に』(以下、『片隅に』)を初めて観てから、もう2年になろうとしている。
 にもかかわらず上映は未だに途切れることなく続いており、今年12月には『片隅に』では削られていた原作本編のエピソードを足した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(以下、『さらにいくつもの』)が公開される。 
 それは単なる「長尺版」「完全版」というより、また別物の映画になるはずだ。それでも、『さらにいくつもの』を観た後では『片隅に』の作品イメージもある程度変わらざるを得ない気もするので、その前に改めて本作の感想を書き記しておきたい。
 
   ***

 自分がこの映画の何に最も惹かれているかというと、「この“世界”の“片隅”に」とタイトルに表されているように、劇中絶えず行われているマクロ(世界)とミクロ(片隅)のせめぎ合いだ。

 たとえば、時間経過の表現。
 物語は昭和8年のずずさんの幼少期から始まり、そこから「〇〇年○○月」という字幕表示とともにあっという間に年月が過ぎていく。それは作品にテンポを生み停滞感を取り払うとともに、「(昭和)20年」の表記になる頃からすずさんが広島に帰ることが何度となく検討される描写と相まって原爆投下へのカウントダウンとしても機能し、タイムサスペンスの要素さえ与えてくる。
 他にも、物語中盤から始まる空襲の際限の無さをその日時記録で表す描写や、すずさんが晴美と右手を喪うのが「時限」爆弾によるものだということ等々・・・。
 そんな風に容赦なく経過していき人物達を翻弄する時間の描写は、マクロを表すものの一つと言えるだろう。

 そして片渕監督はじめ制作スタッフの徹底したリサーチにより作り上げられた、1940年代当時の広島・呉の情景。当時の出来事や街並みを微細に再現するのは勿論のこと、そこで実際に生きていた人々までモブとして描き出している。
 また、人物がデフォルメされた等身ながら手足は大きく描かれている原作の実は特異なキャラデザと現実に即した背景・小物のサイズを自然に馴染ませるという、さりげなくも素晴らしい統一作業も見逃せない。マクロとミクロの見事な融和だ。

 そんな「世界」の中で生きる主人公のすずさんこそ、ミクロ(片隅)を体現する存在だ。
 彼女は自他ともに認めるぼんやりした性格で、突然の縁談に反対する間もなく北條家に嫁がされる。周りの流れに揺蕩うような受け身な人物として終始描かれている。
 しかし彼女が唯一主体的であり自らのアイデンティティとしていたもの、それは「絵を描く」こと。実際の風景をよりカラフルに写生したり、体験談に想像を交えてお話として描き起こしたりと、彼女の作品には常にファンタジックな想像力が宿っている。
 そして作中の世界も本当にすずさんが描いた絵のように変化する。彼女が絵を描いていない時であってもそうだ。高射砲の色付き弾幕は絵の具の飛沫のように映り、彼女の決定的な喪失直後には背景は悍ましく乱雑に変質する。個人の主観が世界の有様を塗り替える。表現主義のようなこの演出により、作品世界の主導権はマクロとミクロの間を自在にスリリングに往還する。

 その果てに、ある決定的な場面が訪れる。
 
 作中でついに8月15日がやって来て、日本は敗戦を迎える。その旨を伝える玉音放送を皆と一緒に聴いたすずは憤慨する。

 「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね? 今ここにまだ5人おるのに。まだ左手も両足も残っとるのに」
 「ああ・・・海の向かうから来たお米、大豆、そんなもので出来とるんじゃなあ、うちは」
 「何も考えん、ぼうっとしたうちのまま死にたかったなあ」

 ミクロがマクロにただ奉仕する全体主義にすずさんがいつの間にか染まっていたこと、「これが自分達の戦い」と言っていた日々の暮らしこそが他者から簒奪したモノの上(=マクロの側)に成り立つものだったことが白日の下に曝される。
 そしてすずさんは畑でひとり慟哭する。
 このシーンの構図が非常に象徴的だ。すずさんをあおりのアングルで捉えて、背景には青空が、手前には地面が描かれ、ちょうど彼女を板挟みにするような絵面になる。彼女はそこで必死に腕を突っ張るが、失くした右腕の側から地に崩れ落ちていく。まさに、ついにすずさん=片隅(ミクロ)が世界(マクロ)に圧し潰されていくような表現だ。

 その後、すずさんと夫の周作は広島でかつての出会いを振り返り、互いのかけがえのなさを再確認する。そしてその地で孤児を拾い娘とする。
 どれだけ世界からあらゆるものを奪われようと、欠損した互いをつなぎ合わせて人々は生きていくし、そこからやがては世界が形作られる。そしてかつて夢想した人攫いの怪物が彼らとすれ違い、すずさんの世界を彩る想像力も微かながらに取り戻されたように描かれる。
 こうして物語的にもテーマ的にも作品は決着を迎える。
 ただ、自分にとっては畑でのシーンのインパクトがそれを上回って余りあり、本作を「禍福はあざなえる縄の如し」的な穏当な物語と捉えることができずにいる。「この世界」の本質的な搾取構造は一皮むけば未だそこにあるじゃないかと思ってしまう。自分が多少なりとも絵を描くことに思い入れがある人間だからかもしれない。
 おそらくは一生忘れることのない楔として、まるで本当にあった出来事のようにして、今日のように本作を「思い出す」ことを繰り返していくような気がする。
 

 追記:
 最後に登場する、原爆から母親が右半身でかばい、残った左手で連れ歩き守られた孤児。孤児はすずさんにとって有り得たかもしれないもう一人の晴美で、すずさんは孤児にとってのもう一人母親だ。 そして本作『片隅に』では僅かな登場となっていたりんさんも、原作では周作を介してすずさんとオルタナティヴな関係で結ばれている。けれど『片隅に』内での描写に限ってはすずさんはそれを知る由もない。
 『片隅に』が、エピソードが少なからず削られているが故に他と取り換えの効かないすずさんのシンプルな個人史になっていたのと対照的に、『さらにいくつもの』は彼女含め幾多の人々の人生をより尺をとって描き得る作品になるだろう。ミクロのまなざしを維持したまま、しかしより相対的に。
 ある意味、いきなり原作そのままに群像劇的に描いていたらともすれば俯瞰的な視点が強まってしまっていたかもしれない『さらにいくつもの』へのゆるやかなステップとしても本作『片隅に』は機能するだろうと信じている。
 
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