論集『3・11の未来 日本・SF・創造力』

2012.02.17 04:30|
 3月末の『UN-GO』TV版全話+劇場版オールナイト上映イベントが今から楽しみでしゃーない。
 そうです私が一年前はライトなアニオタ気取っていた重度のアニオタです。
 でも妖怪画オタでもあるからいいんだよ(何が?)


   ***


 さておき、前の読書感想記事でもちょこっと書いたけど、改めて『3・11の未来』のことを一つの記事で書いておこうと思う。


 ・「認識」するSF×3.11
『3・11の未来 日本・SF・創造力』

3・11
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/23192238.html

監修・笠井潔/巽孝之 編集・海老原豊/藤田直哉
執筆陣・小松左京/山田正紀/瀬名秀明/谷甲州/押井守/鼎元亨ほか
作品社 2011.9
税別・1800円

※本書感想に行く前に、まずは前置きとして。

 先日、私の所属する大学のゼミの教授がある著作を出版した。
 その著作は、その分野界隈ではかなりの反響を呼び、新聞や一般情報誌などにもとりあげられた。評判は、これは画期的だ、着目点が素晴らしいという称賛から、こんなものは間違っている、著者の思想を疑うなどといったものまで、俗に言う「賛否両論」だった。
 しかしそうした二元論で済むほどには実状は単純ではない。
 教授は、著作の対象を「その分野に関心のある一般層」に絞って執筆した。内容は、その分野に専門的に関わっている人々(つまり学者・研究者)の間ではよく知られた研究動向だが、一般層の知識ではかなり新鮮なものだ。その認識のギャップを狙って、タイトルや文体はあえて簡易かつ挑発的なものに仕上げている。
 そして、研究者などの専門層からはそうした着眼点を評価され、一般層からは賛否含めてヴィヴィッドな反応があり、結構な話題となった。つまり教授の目論見は概ね成功したといって良いだろう。
 ただもう一歩踏み込んで、一般層の「否」の意見をみると、だいたい共通して、教授が著作の中で述べるテーマを否定し、「こんなテーマを是とする著者は間違っている」というものがみられる。
 ここに一つの誤認がある。

 私は、そのゼミの教授とはまた別の教授(ややこしいので前者をA教授、後者をB教授とする)から、件の著書出版とほとんど時を同じくして、「認識」と「評価」についての話を聞いた。
 B教授は言った。「認識」とは、特定の範囲の現状を調べ上げ、分析、理解し、その現状がどういうものかを判断するということ。ここに、現状への観測者の肯定も否定も含まれない。
 そして「評価」で初めて、認識したその現状がどうあるべきかが主題になる。そのままで良いのか、修正されるべきなのか、どうするべきだったのか。
 研究においては、「認識」と「評価」この二点を明確に区別しなくてはならない。「どうあるのか」と「どうあるべきか」を混同しては、それはただの主観的な意見に過ぎないと。そして、前段階の「認識」こそ重要視して行われなければならないと。
 この理屈が、A教授の著作への「否」の意見にも当てはまる。
 その著作でA教授は、その分野の現状の「このようである」という「認識」をキャッチーに表しているだけで、決してその現状を「こうあるべき」と「評価」しているわけではないのだ。そこを、「認識」=「評価」と短絡的にとらえると、「こんなテーマを是とする著者は間違っている!」という否定意見につながるのだろう。
 勿論「認識」自体に問題点を見つけて否定している意見もみられ、それはそれで至極真っ当な意見だ。私はそれを「否定」する気はさらさらない。自分自身、教授の「認識」に余すところなく全て賛成しているわけでもないし。
 そして先月の日本語講座企画の研究成果レポートを、「認識」と「評価」を思いっきり混同させて書いてしまった自分を厳しく戒めておきたい。だって、分かってはいても実際にやるのは難しいんだもん・・・。研究発表会にA教授が観覧に来てて死ぬかと思った。


 さて、なぜ『3・11の未来』の読書感想の記事でこんな前置きを長々と書いていたかというと、この本もまた「認識」をめぐる一冊だからだ。

 『3・11の未来 日本・SF・創造力』

 本書は、3.11について被災地での感動的な体験談を語ったりエールを送ったり、具体的な政策提言をしたりするものではない。
 小松左京、山田正紀、巽孝之をはじめとした多くのSF作家や科学者が、主に「SF」の観点から、2011年3月11日に起きた大地震、原発事故、そこから広がった諸処の問題―――「3.11」とは何なのか、何が起きているのかについて語った文章や鼎談を収録した論集だ。
 あくまでも「SF」というフィルタをかけて3.11を一歩離れた視点で語るもので、だから震災被害の「当事者」が読んだら「なにを絵空事のように」と怒りを覚えるかもしれない。その憤慨は正しく、本書はまさしくそういうものだ。
 「評価」ではなく、ひたすらに「認識」を突き詰めた本なのだ。だからこそ無意味であり、だからこそ意味が有る。
 SFの意義と役割、日本社会との関係性への認識を再構築し、そしてこの現状に各々の立場から何ができるのかを必死に導き出そうとする彼らSF作家の姿勢には、深く感じ入るものがある。
 ひるがえって、じゃあ自分の立場からは何ができるだろうと考えさせられる。
 人と社会との個別の関わり方を模索する、ある意味普遍的な一冊でもあるのだ。

 この記事では、この論集の内容をある程度要約し、いくつかの文章に注目して私なりの感想を、認識と評価を、述べていきたい。

 
 本書は大きく分けて四部構造になっていて、第一部は「SFから3.11への応答責任」。
 日本のSFと現実の日本社会とがこれまでどのような関係にあり、影響し合ってきたかが語られる。

 まずは笠井潔「3・11とゴジラ/大和/原子力」『ゴジラ』が取り上げられている。第五福竜丸被爆事件から着想を得て生み出された、敗戦直後最大のSF/特撮としてのゴジラ。作品の基本構造とその後の変容から、笠井は日本の「戦争」「原子力」にまつわるイデオロギーの歴史を導き出す。

 そして次に来るのが、本書の目玉企画といってもいい、およそ50頁にもおよぶ笠井潔×巽孝之×山田正紀の鼎談録だ。「3.11とSF的想像力」のタイトルのもとに、敗戦から現在の3.11にいたるまで、日本SFが反映し予言してきた日本社会の在り方、民族性、価値観の変遷、そして対応しきれなかった現実を洗い出していく。ミステリや社会評論、オタクカルチャーなどのジャンルにも話題は広がり、ちょっとした戦後文化思想史概説の趣がある。
 中でも、特に日本を本質的に語り得ているSFテキストとして提示されるのが小松左京『日本沈没』だ。これは本書のどの文章にも通低している軸で、そしてこの本自体の基調となっている(さらには、後述するが、まったく予期せぬ現実とのリンクを呼び込むことになる・・・)
 鼎談の中で山田は、今回の震災の状況は人間が情報処理できる限界を超えてしまっていて、そこで日本人のいちばん古い地層が露出したと指摘している。ここに僕は非常に共感した。以前のブログ記事でも書いたけれど、歴史学科としての視点で2011年の震災後の日本をみていると、日本社会の歴史的特性が浮き彫りになっていくのが分かり、不謹慎ながら興奮を隠せなかった。たとえば、原発事故後の放射能恐慌に陥った日本の姿って、1953年の第五福竜丸事件直後のそれとほとんど同一なのだ。
 
 第一部では他に、『宇宙戦艦ヤマト』と原発災害の関係(『ヤマト』は『西遊記』だった!?)、『崖の上のポニョ』をはじめとした宮崎駿作品に映し出される日本の災害文化の考察、などが語られる。


 続いて第二部は「科学のことば、SFのことば」。
 SFの本質的機能、役割、そもそもSFとはどんなものなのかが語られる。
 この部でも小松左京の『日本沈没』、特に『日本沈没第二部』を中心とした座談会の記録が収録されている。本作品が、日本の未来、災害をどこまで見据えていたのか。ほか、『小松左京の大震災'95』『復活の日』なども重要なテキストとして挙げられている。 

 第二部一番目に収録された瀬名秀明「SFの無責任さについて」では、瀬名が直視した3.11の現実と、彼が『のび太と鉄人兵団』のノベライズをてがけた『ドラえもん』という一大SFトピックとの関連を軸として、SFの生み出す「思いやり」が考察される。
 瀬名は、震災をうけて被災地に向けての文章執筆を数多く依頼されるも、一方で直接の被災地でない場所(東京など)に住む人々のための言葉が必要なのではないかと感じたという。そして依頼を悉く断り、人の想像力、情報災害、地方と中央の関係について考え続けた。
 そして瀬名は「思いやり」について語る。人間が他人の気持ちを推測し自分の感情を重ねる働きは、「行動的共鳴」「シンパシー(共感、同情)」「エンパシー(感情移入)」の三つに分けられる。行動的共鳴は単なる模倣で、シンパシーは受け身的に相手の気持ちを共有する思いやり、エンパシーは積極的に相手の気持ちに自分の気持ちを同調させる思いやりなのだという。瀬名は最後のエンパシーに着目し、これによって在り方の違いを飛び越えて思いやることができるのだとする。そこでやはり、『日本沈没』の田所博士の地球へのエンパシーが例に挙げられる。
 そしてエンパシーとしての思いやりの表裏一体の側面として、SFの「無責任さ」につなげていく。突拍子もない発想で有り得ない世界を描き出すSFこそ、エンパシーの塊であると。それは時にシンパシーの側からは、冷酷で身も蓋もなく無責任に映るのだ。
 そして瀬名は『鉄人兵団』のリメイク劇場版にともなって、『鉄人兵団』の小説版を執筆している。そこで瀬名は、原作には登場しないキャラ・星野スミレ(パーマン2号!)に鏡面世界で戦うのび太達を想う歌をうたわせている。現実ではない世界に思いやりを馳せる歌を。
 また、瀬名は『鉄人兵団』原作の一エピソードも引用する。現代で人類侵略を行うロボット達をくい止めるために、人間のしずかとロボットのリルルはタイムマシンで、はるか過去でロボット文明の始祖を開発する研究者に会いに行く。ロボットが未来で行う行状を聞かされた研究者は、始祖ロボットの基本システムの改造に命を削って挑む。その時の彼の科白―――「他人を思いやるあたたかい心を……」

 正直、瀬名さんの項ではちょっと泣きそうになった。近所の図書館に『鉄人兵団』小説版所蔵されてるんだけど、ずっと貸出中・・・。取り寄せて買うかなあ。

 第二部収録の文章は他に、八代嘉美「「血も涙もない」ことの優しさ」、長谷敏司「3・11以後の科学とことばとSF」、仲正昌樹「SFは冷酷である」、海老原豊「一九七三年/二〇一一年のSF的想像力」など。


 第三部は「SFが体験した3・11」。
 SF作家が3.11を体験して感じたこと考えたことが、比較的平易な文章を揃えて語られている。
 
 特に新井素子「東日本大震災について」などは、ほとんど一人間としての実直な感想が綴られている(著作とか肩書は物凄い人なんだけど)。しかしだからこそ、SFはきっとその役目を果たせるのだという主張がストレートに響く。

 そして押井守「あえて、十字架を背負う」。口頭文形式で、押井が若い頃抱えていた社会への破壊願望、帰宅難民であふれかえる3.11の東京、これからのことを述べている。言っていることは『スカイ・クロラ』とそう変わらない。そして、若者はもっと声をあげるべきだ、復興と称して『パト2』の東京のような災禍に耐性のない街をこれからまた作りだしてしまっても良いのかと。本当に、「若者へのメッセージ」を放つ人になったんだなあ。
 「僕は根底的に人間に同情しない主義で、むしろ被災地の犬や猫のほうが気になるんだけど……」と言ってたのは相変わらずだったけどw

 野尻抱介「原発事故、ネットの混沌とロトバスな文明」。放射線研究に傾倒してきた来歴からはじまって、福島で行った線量観測の記録、文明・ネットの未来の考察など。
 現代文明を生物細胞にたとえているのが印象深い。ちょっと理想論過ぎやしないかとも思うが、同時にこれがSFに携わる人の折れない希望なのだなと羨ましく感じる。

 他、大原まり子「3・11以降の未来への手紙」、クリストファー・ボルトン「分裂あるいは流入としての言語」など。最後のだけはやたら難しかったな。


 最後の第四部は、「3・11の未来へ」。
 冒頭の引用文が坂口安吾『教祖の文学』で興奮した。一部抜粋:「生きることにはあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ。」
 3.11以後、日本を含め世界全体がどのように動いていくかをSF的見地から予測した文章を収録している。

 鼎元亨「3・11後の来るべき日本」では、3.11以前の世界の国際情勢を概括した後、一気に3.11後に予想される社会変動の思考実験へとなだれ込む。東北の社会資本消失によるインフレ、首都遷都、中央縮小/地方分権への移行、それを統括するための日本帝国化。日本の弱体化を機に中国海軍が外洋進出→東シナ海戦争。世界的な情報のフラット化による情報産業の消滅、政治・行政のクラウドネットワーク化。
 これだけのシミュレーションを、説得力を持って展開できる力には圧倒される
 そしてこれら全ての推測は、「ここまで述べてきたことはすべて有り得べき“虚構”だ」としてオチがつけられる。

 第四部最後尾に収録の藤田直哉「無意味ということ」では、災害に錯綜する日本社会においての「無意味」の意味が語られる。藤田は、震災にも死にも生にも最初から意味はなく、人間がそこに意味を与えるのだと主張する。そして小松や筒井康孝の日本SF第一世代には無意味の肯定が底にあるとする。また、最先端の谷川流『ハルヒ』清涼院流水『カーニバル』にも「無意味」は表れているという。
 無意味に意味を与えるのは「神」で、無意味を笑うのが「道化師」。神のいない近代以降の世界では、人は自ら神の役目を果たし、そしてその自作自演を道化師として笑ってみせなければならない。
 藤田は、今度の震災では被害に対して地域的にも個人的にもばらばらな濃淡があり、誰もが被害の当事者であり非当事者であるとする。そして当事者としての優位性をめぐって倫理的暴力があちこちで発動している(twitter上での不謹慎論争など)。そこから対話を生み出すには、一度この状況を相対化しなければならない。そこで「喪」が、「ファルス(笑劇)」が、「無意味」が必要になる。それによって自分自身の声を聞き、自分自身の物語を自分自身のために語ることができ、ひいては災害の全体性を把握することにつながるのだ、と。
 これは明らかに、戦後直後に世相の荒廃混沌、人間の善性悪性をひっくるめて茶化し肯定してみせた坂口安吾の『堕落論』を意識した語りだ。実際、「ファルス」の説明の中で安吾のエッセイ『FARCEについて』を引用している。本稿は3.11以後のための『堕落論』現代アップデート版といって良いだろう。
 え? 石原慎太郎『新・堕落論―我欲と天罰』? 知らんな。

 ほかに3.11後の“終わりなき日常”の在り方についての桜坂洋「フロム・ゼロ・トゥ・201X」、これからのSFの「読み方」を丁寧に考察した新城カズマ「3・11の裡に(おいて)SFを読むこと」など。


 そして論集全体のまとめとして、監修者でもある巽孝之「結語―――またはゼロ年代の終わりに」で、本書の企画経緯や構成について語り、普遍的正義が揺らぎ価値観が乱反射する3.11以後でこそ、SF的想像力が意義を増すのだとして締め括られる。


   ***

 で、ここからが実はある意味での本題だ。
 これまでの概要をみて分かる通り、この論集の軸となっているのは「小松左京」であり『日本沈没』をはじめとした彼の作品群だ。ほとんど全ての項で彼とその作品についての言及があり、鼎談はそれらを中心に進められている。
 そもそもこの本の最初の文章である序文こそが、小松左京「3・11以降の未来へ」ではじまっているのだ。
 ほんの2頁ほどのその文章で、小松は東日本大震災の重大性・特異性をふまえ、日本を覆うその災害規模を想定できていなかったことの虚脱感、文明への不信感の発生を指摘している。そしてこれから日本人がこの困難をどう乗り切っていくかを見届けたい思い、後輩SF作家達へのエールを記して終わっている。

 そこから数々のSF作家らによる文章と鼎談が四部構成で続き、巽孝之の結語の後に、編集後記という名の小松左京への追悼文を最後にして論集は閉じられる。

 そう、小松左京はこの論集のための序文を執筆したほとんど直後、7月28日に享年80歳でこの世を去っている。本書の企画が立ち上げられたのが2011年の4月、笠井・巽・山田の鼎談が行われたのが4月末、他のSF作家達の文章が執筆されたのがそれから6月までの期間。そして7月に最終編集作業が行われていたのだという。

 この本に携わった人々は、各々が担当する文章を書き終え、鼎談を果たし、そして小松の訃報をうけて、彼らは何を想ったのだろう。

 小松左京の序文で始まり、制作者達の小松左京への追悼文で幕を閉じる本書。
 小松左京と共に歩んだ同志、あるいは小松左京の作品に育てられた後輩としてのSF作家達が、3.11を語るうえで最も拠り所としたのが小松左京その人であり、その作品群だった。

 死後に神格化された小松左京を語るものではない、彼の生きていたリアルタイムに彼を生身の人間/作家として最も正当に評価し、それらを通じて日本の“今”と“これから”を描き出した論集。
 本書はある意味、小松左京の真の「遺作」といえる。
 “今”について語ろうとしなければこの本は生まれず、あと少しでも発案が遅かったら、企画が立ち上がり文章が書かれ始めるのは小松左京の死後だったかもしれない。そうなっては、この本の価値は決定的に異なるものになっていただろう。3.11論考の名を借りた只の小松左京追悼文集になっていたに違いない。
 そうではなく、あのギリギリの時期に切実な意思が集って、あくまで「小松左京」を「切り口」として3.11を語ることで、逆に小松左京への最も正当で真摯な手向けの花が生み出されたのだ。

 SFの名著が往々にして未来の現実を予言し、意図しないで何かの要素がリンクするように、そしてこの論集もまた現実と呼応し、あまりにも出来過ぎなくらいの物語性を獲得してしまった。

 今を見つめ、いずれ来るかもしれない未来へ向けて冷徹な認識思考と夢あふれる想いを馳せる。その副産物として、ときたま予期せぬ現実との呼応を果たす。
 それをSFとして定義するならば、本書は確かにSFそのものだ。


   ***


 私は、「あの時」、TVの前で途方に暮れてしまった感覚が今も続いていて、未だにあの時を中心に展開された現実をじゅうぶんに認識できていない。そんな自分に寄り添って、一緒に悩み考え続けてくれる本書は、おりにふれて読み返すことになるだろう。

 また、本記事で紹介した内容は、390頁超の本書のほんの一部に過ぎない。実際に読まなければ真価は分からない。
 良い本ですよ。非常におススメ。


 追記:私は基本的には「3.11」という記号的表現は嫌いだ。自分でもついつい使っちゃうんだけど。ただ、この論集みたいに、その「3.11」の定義を徹底的に考え尽くそうという企画はいくらでもあって良いと思う。
 あと、一番恐ろしいのは、本書のタイトルの「創造力」が「想像力」の誤植なんじゃないかという疑いなんだけど、ははは、まさかねえ。(12.2.18)

 追記2:感想文としてさすがに長過ぎ、熱烈に書き過ぎてしまったなと反省。前置きと要約抜きで感想のみに絞れば、もっとコンパクトになったんだけど。しかし認識と評価についての前置きは、本書感想との絡みでどうしても削れなかった。(12.2.19)


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tag:3・11の未来 小松左京 SF

Comment

SFが誤解される。

はじめまして、映画ブログの晴雨堂です。ヒノキオ氏とは映画レビュー仲間(私は勝手にそうおもっていますが)です。


 残念ながら、この本の言いたいことは理屈で理解していますが、感情ではなかなか不愉快です。もう少し、冷却期間を置くべきだったと思います。

 震災直後、私は原発と補助金の関係(事実ですが)をつぶやいたら一部の「友人」が離れた経緯があります。
 感情の生き物ですから、できるだけ曲解されにくい時期を選ぶべきかなと思いました。
 ただでさえ、日本のSFは低く見られているのですから。

>晴雨堂ミカエルさん

 コメントありがとうございます。
 晴雨堂さんのレビューやブログも時折拝読させていただいております。一読者として尊敬しています。
 自分の拙いブログ記事を読んでコメントまでしてくださって、非常に嬉しいです。

 私も、本書に対して称賛以外の感情がないわけではありません。
 時期として早過ぎるというのも分かります。実際に深刻な被害を受けて苦しんでいる方、解決に奔走している方の感情を逆撫でしていることも重々承知しています。

 それでも、本書に関わった彼らSF作家が何か言葉を発さずにはいられなかった気持ちを汲んで、本書を評価したいと思うのです。そしてあの時期でこそ、危うい生々しさを含めて語り得た言葉もあったと思います。
 ただ、自分も少々熱烈に感想を書き過ぎたという反省もあります。

 貴重なご教示、ありがとうございました。
 最近、ブログで記事を書いて発信することに躊躇を失くしかけていたので、身が引き締まりました。
 また自分が何か浅薄なことを書いていたら、遠慮なく指摘してください。

追伸

また、本書製作を前後しての小松左京の逝去も、やはり本書の在り方に「想定外」の付加価値を与えてしまい、そこも曲解の一因になってしまっているんだろうなと思います。
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江楠

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